僕はズレている

 実は私、講師ブログの他にお忍びで6年ほど書き続けているブログを
持っています。久しぶりにその日記を読み返していたら、対人恐怖から
脱却しつつある時期に書いていた日記を発見しました。
皆さんに読んで頂きたいので、載せておきます。たまに古い日記を
こちらのブログでも載せますね。



  数年前のある冬の日の日記


 僕はズレている。表現が難しい。僕は、「肉体としての僕」と、
「精神としての僕」にズレを感じているのである。性同一性障害とか
そう言った類のものではない。性的なものではなく、精神的なもの。
とにかく表現が難しい。

 僕の精神と肉体は思春期を迎えるまでは一致していたと思う。
僕は肉体としての僕であり、同時に精神としての僕であった。
だが高校生の辺りから精神としての僕が、肉体としての僕に違和感を
感じるようになっていた。


 難しい。すごく難しいニュアンスだ。言うなれば、僕の肉体は
「精神としての僕」から少し離れた場所から機械的に操作されているような、
そんな感覚である。ラジコンはコントローラーで操作すれば意思通りに
動いてくれる。僕と肉体と精神はちょうどそんな感じで、高校の頃から
少しづつ分離してしまったように思えるのだ。


 ラジコンはその物体自身が意思を持って動いているのではなく、
少し離れた場所に意思の源泉があってそこから操作されている。
そんな感覚を自分自身に覚えていた。


 僕の精神は肉体から離れていた。ズレていたのである。
肉体と精神が一致しているときは、表情が自然にでる。ナチュラルだ。
だが、精神と肉体が分離していると、一度精神から肉体に情報を伝える
作業が介在することによって、ワンテンポ遅れた、不自然な表情ができて
しまうのである。


 僕は大学時代の終わりの頃、特に顕著にずれていた。その頃は
人とまともに会うことができなくなっていた。僕は僕の肉体と
一致する事を恐れ、少し離れたところから肉体を操作して、
人と話すようになっていた。

 その時は僕の顔から表情はギコチナクナッテイタ。
僕は逃げていたのだ。人間同士の複雑なコミュニケーションが嫌になり、
自分を借り物として意識することによって、肉体としての自分と、
精神としての自分を切り離し、肉体としての自分をすごく遠くから
操作することで、直接精神が傷つくことを恐れていたのだ。


 精神としての僕はすごく臆病で、肉体としての僕は精神としての
僕の被害者だった。僕の肉体は、つまり家主を失った抜け殻は、生気を失い、
人生の喜びを体で感じることができなくなっていた。


 それから幾年経っただろうか。僕の精神はやっとのことで長旅を終え、
肉体に戻ろうとしている。長い長い旅だった。元の自分へと戻ることに
対しての躊躇は少しある。でももうそれすら無くなるのは時間の
問題だと思う。僕のズレはもうすぐ無くなる。僕はそれを感じる。僕は僕に
戻るのだ。すごくうれしい。僕は元に戻れるのだ。もう表情を操作する
必要はなくなるし、逃げる必要も無い。こんなにすばらしいことは無いのだ