「分別」


「分別」
 


 思うに24歳ぐらいまでは自分の才能が未知数であるために
それを確かめるように目標を高く設定し、振り回されていた。
結果の悪さばかりに目が向き、
自分をいつも責めていたように感じる。
自分への期待が高すぎ、それに到達できない
苛立ちが肥大し、毎日がつらい日々だった。



 確かにそれは勉強や仕事へのモチベーションとして昇華された。
殻を破りたいがために、勉強と仕事に打ち込んだ。
成果はそれなりに出た。



 しかし、私はまだまだ自分が嫌いだった。
自分が「なければならない」水準の
10%ぐらいしかできていないと考えていた。
100点満点なら自分は10点・・・
楽ではない。結果が出ない日々・・・



 しかしたくさんの失敗を繰り返すうちに、
段々と自分にはできることとできないことがあることが解ってきた。
そして、自分にはできないことが、自分のせいだけでないことも
ある程度理解することができた。



 またその逆として、たいした努力も無しに
結果がついてきたこともあった。 
 私には特別な才能など無い
集団に埋没した一塊の男である。
もはやそれは分かりきった事である。
「実力」の定義から「運」を排除したとすれば
こんなものは「実力」でもなんでも無い。
ただ運が良いだけなのである。



 個人の力ではどうにもできない大きな流れがあって、
それは操作することができない。
そういった運命を嘆いても
何も良いことなどないと気がついた。
 また運が良いことを自分の実力に帰属させても
なんの意味もない。



 だからといって、むなしい気持ちになる必要もないし、
腐る必要もない。大事な事は、やるべきことをやって、
あとは自然に身を任せることだと悟った。
「結果」はおてんと様が決めることであって、
自分が頭を凝らすことは、今目の前にある「過程」なのである。
人事を尽くして天命を待つのである。


 
 自分達が操作できるのは
「過程」だけである。だからその
「過程」にはこだわった方が良い。
「過程」にこだわらなければ成長は無い。
なぜならそこは自分の力が及ぶ範囲であるから。
反省すべきは「過程」である。


 
 最近私は「過程」を愛することができるようになっている。
人生の多くは「過程」である。
その「過程」を一生懸命できたのであれば、
結果が悪くても、自分を許せるし、
認めることができるようになった。




 逆に、結果がよかろうと「過程」に不誠実な面、
ズルした面、怠惰な面が内包されていたとしたら、
その結果はほとんど意味をなさないという
感覚も覚えるようになった。
 
 
 
 
 


***********


↓↓11月23日川柳会↓↓ 

http://xn--gmqyys98nzba.jp/senryu/u/top/



***********