白い飯は我を我に返す


 今の世の中は選択肢が非常に広い。
自分で努力さえすれば大抵の事は達成できる。
 
 同時に、選択肢が広い社会と言うのは
コンプレックスを生みやすい社会だとも言える。
自己の可能性が広がると言うことは
その可能性に到達できていない自分に
劣等感を覚えてしまうからだ。



 人間の欲望には際限が無い。
一昔前までは白いご飯を食べられれば幸福であったのに、
今は白い飯を食べているだけでは不幸の部類に入る。
良い肉、良い魚、良い野菜、良い場所でご飯を食べれなくては
幸福になれない。



 白い飯しか食べられないような経済力では
コンプレックスを感じてしまう。
 それは白い米だけではなく、あらゆる食材を
食べることができるという人生もあるだけに起こる。



 昔は皆が農民だった。
生まれた瞬間に農民である事が決まっていて
努力したって農民のままである。だから
自分が将来どんな道をべきかとか悩む必要が無かった。
周りと自分の立場を比べることも無かった。


 悩むことは「生きる為の米を得ることができるかどうか」に
終始していただろう。
 そして、コンプレックスを感じるとすれば、隣の吾作よりも
収穫がすくなかったとかそれぐらいである。
コンプレックス自体を感じる選択肢が限られていたのである。
(コンプレックスの深さは別とする)


 繰り返しになるが、現代に生きているわれわれの
選択肢は無限大である。選択肢が多ければ多いほど
人間の「コンプレックスの選択肢」は増える。そして
その無限大のコンプレックスの渦に飲み込まれそうになり
もがいてしまうのである。


 しかしよく考えればほとんどの人が白い飯を食べることが
できている。そしてそれは国家によって保証されている。
一昔の選択肢で言えば、絶対的な幸福を
得るための条件を生まれながらに獲得しているのである。


 あらゆる可能性を得ようとする欲望に振り回され
「可能性と乖離した自分」へのコンプレックスが
肥大化し、動けなくなったら、
一度その選択肢の原点に立ち返ることだ。


「そう言えば私は白い飯を食べることができているではないか。」と。


 我々のご先祖様の培ってきた価値観を思い出すのである。
そしてそのDNA誰にも宿っているから誰にでも思い出すことができる。



 私はコンプレックスが強い人間である。
そしてどちらかといえば、感じたコンプレックスを消そうとは
せずに自分のエネルギーに変えるようにしてきた。
私は適度なコンプレックスを肯定する人間である(9/8日記参照)


 しかし時として色々な事象が重なりコンプレックスの渦に
飲み込まれ、にっちもさっちも行かなくなってしまう時がある。
自分が得たいと思う選択肢を得ることができずに
もがき苦しんでしまうのである。


 そんな時、決まって私は白い飯を食べ、自分の欲望の基準値を
設定し直し、原点に立ち返るのである。