「デマゴーグ、デマゴギー」



 デマゴーグとは古代ギリシャにおいて、
ウソやウワサを流して民衆をあおり、
結果的に国家を崩壊させた扇動政治家を意味します。
彼らが流す嘘や噂はデマゴギーと呼ばれ、
「デマ」という言葉の語源となっています。




 デマゴーグを身近な例で考えてみましょう。 
ある会社で社運を賭けたプロジェクトが存在したとします。
ここでプロジェクトの企画を考える社員として
A君とB君が抜擢され、それぞれA案とB案を考えたとしましょう。




 A君は外交的で、舌活も良く、容姿も端麗です。
そんなA君は社内でも目立つので、人を惹きつけて止みません。
 B君は少し内向的で、どもりがちです。容姿もどこかパっとしません。
そんなB君は社内でも目立つ存在ではありません。


 仮にプランAを採用した場合、会社がつぶれると仮定し、
仮にプランBを採用した場合、多大な利益が上がると仮定します。



 そんな2人がお互いのプランを出し合ったとします。
ここで会社の命運をかけるプランを採用する上で
重要なことは何でしょうか?



 あたりまえですが、それはプランそのものの是非です。
A君、B君がどもっていようが、活舌が良かろうが関係が
無いのです。




 コミュニケーション能力とは環境によってその定義が
複雑に変化します。このケースにおけるコミュニケーション能力の
高低は「いかに優れた案を出せるか」であり、
「いかに明るく、舌活良く話すか」では無いのです。
 もし、A君の派手さが人を引きつけ、プランAが採用されてしまった
場合、A君はデマゴーグ以外の何者でもないでしょう。


 
 私はデマゴーグを量産するコミュンケーション講座を否定します。
コミュニケーション能力の定義を誤って理解し、
内容よりも見た目の派手さに目が行くのが正しい
文化が浸透したとしたら、日本は終わりでしょう。
 デマゴーグはマクロレベルで世界を幾度と無く間違った方向に導き、
社会的な損失をもたらしてきました。

 


 講座の生徒さんに求めることは、
派手な話し方をすることではありません。
舌活の良さをそこまで求めることはありません。
人前で堂々と話すことではありません。
真っ赤になるのも健康的な証拠です。
人の意見をねじ伏せて、出世競争に勝つことでもありません。
個人の幸せを追求しても、幸福な社会は達成できません。
個人の幸福の追求をコンセプトとして講座は作られていません。




 
 私の生徒さんに求めることは
本当に社会に求められる情報を自分の頭で作り出すことす。
そして、それを適切に世の中に伝える能力を持つことです。
そして、話し方の派手さに惑わされず、本当に精度の高い
情報を見極める目を持つことです。




 
 物静かでおとなしくても構いません。
話す速度が遅く、コンプレックスに持っていても
あせる必要はありません。




 本当にあせるべきは、「自分の頭で考える力」を
高める訓練をしているのかという事です。
そして、考える力を身につけるには、
沢山の問題と向き合い、それに対する文章を書き、
そして実行したり検証したりすることが大事になります。




 
 このブログを読んでいる方のほとんどが私とあまり
歳の変らない方ばかりでしょう。私自身も頑張ります。
10年後、20年後、お互いが考える力をしっかりと身につけ
それを真のコミュニケーション能力とする文化と
できるよう共に努力していきましょう。





*注意

 今回は情報生成の重要性を書きましたが、
舌活や社交性、見た目を軽視したという意味ではありません。
 他者にしっかりと伝わる程度の舌活、社交性、清潔感のある服装は
「それなり」に大事ではあると言う事を最後に強調しておきます。 

  


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